ある朝髪をセットしていると、センターパートに分けた前髪にキラリと光るものが。
白髪である。ゾッと背中が粟立つのを感じた。
30の大台に乗った時、もう外見や年齢に縛られなくていいのだと安堵した記憶がある。
しかし現実はどうだ。白髪隠しシャンプーや美顔器、スポーツジムに脱毛、ファスティング、グルテンフリー、エトセトラエトセトラ。
俺の日常はそういうもので溢れていて、スマホのブックマークは美容整形の情報で一杯だ。
俺は一体いつになったらこの美醜や年齢、モテ・非モテというしがらみから逃れられるのか。「ありのままの自分」とやらを受け入れられる日は、いつ来るのか。
先日夢中になって読んだ、とある漫画に登場した「わたしたちもいつか35になるんだよ」という、少女の達観したようなセリフが、脳内でリフレインする。
俺は今月、35になった。
愛とカネと美醜の大河ドラマ『明日、私は誰かのカノジョ』
レンタル彼女、ソープ嬢、ホスト狂い、整形依存、パパ活女子……。
さまざまな闇を抱えた少女たちの人生が交差していく様を描いた群像劇『明日、私は誰かのカノジョ』(通称『明日カノ』)
今更俺が紹介するまでもない大人気作品だが、この明日カノが先日、ついに完結した。
大河ドラマを全話観きったことはない俺だが、明日カノはまさに令和の大河ドラマと呼んで差し支えない。
この作品を読んでシンパシーを感じ、歌舞伎町に足を踏み入れたという女の子も多いようだ。
作り物の美しさやハリボテの愛を求めて、深い闇の淵へ沈みそうになりながらも、なんとかもがきながら現実という世界にしがみついている。物語に登場する、そんな少女たち。
彼女たちに「大人」や「世間」の目は冷たく、残酷で、差し伸べられる手はない。
ただひたすら溺れる者同士、同じ痛みを分かち合う者同士だけが、時に手を取り合って沈みゆくお互いを必死に引き上げようとしたり、反対に蹴落としたりしようとする。
そんな少女たち、そして時折現れる男たちの、剥き出しの「生」を色鮮やかに描いたオムニバス形式の作品である。
少女たちの過去やバックボーンも丁寧に描かれていて、なぜホス狂いになったのか、なぜ整形にこだわって身体まで売るのか、毒親問題など、彼女たちの育ちや内面にまで鋭く切り込んだこの作品のページを捲るたび、俺は自分の心がバンバン血を流しているのを感じた。
ゲイであることを差し引いても、俺は少女ではないし、ホス狂いでもないし、整形も(今のところ)していない、35のおっさんだが、この作品の少女たちの中に、確かに俺はいた。自分を愛するための美しさや、大枚を払って刹那の愛を求める彼女たちの叫びはそのまま、俺の叫びでもある。
この物語が他人事な人間なんて、きっと1人もいない。
血を流しながら、それでも夜を超えていく
ゲイコミュニティ。それは異常に高い美意識を求められる世界である。
ぶっちゃけ俺は自分を年齢の割にはそこそこイケていると思っているが、それでも同性愛者の世界ではせいぜい「並」といったレベルだし、もう若くもない。
そのことにひどい焦りを感じる。
ゲイコミュニティにおける恋愛やセックス、つまりモテという承認欲求は「若さ」や「美しさ」というものに集約しがちなのが現実だ。
別に俺はフェミニストというわけではないが、我々同性愛者が結婚できないことや子供を持てないことが、その一因であるのは間違いないだろう。
愛とは刹那のものであり、いつか消えるものであり、一生や永遠といった確かな約束を俺たちは持ち得ない。
ゴールのない、先が見えない真っ暗な道を走り続けるには、要所要所に道を照らす光が必要だ。それがたとえ作り物の光でも。それが俺にとっては、若さを維持することや、享楽的な恋愛やセックスだった。
もちろん全てのゲイがモテや恋愛や美貌やセックスのために生きているわけではない。
だが俺を初め、一定数のゲイがそういうもののために死ぬ気で生きていることの滑稽さは、明日カノに登場する少女たちにも通じるだろう。理解できない人々から見れば、ただ愚かに映るだけに違いない。
だが俺たちは生きている。どれほど愚かしくても、今現実としてここに生きている。
生きることを諦めることは、きっと容易い。
それでも俺たちは、今日という夜をまたひとつ乗り越えるために、血を流しながら死ぬ気で世界にしがみついている。
誰かと愛し愛されたい、そして誰より自分自身を愛したいと願いながら。
ホストでも、整形でも、セックスでも、若作りでも、手段はなんでも構わない。
自分で自分を愛してやるために、肯定するために、血を流し続ける俺やこの物語に登場する少女たちを、ご立派な世間のみなさんたちの一体誰が笑えるというのだろうか。
己の中の「少女」と、ケリをつける物語
俺の性的な賞味期限はあとどれくらいだろうか。5年?10年?
センターパートの前髪に見つけた白髪を抜きながら、そんな嫌なことを考える。
「人の魅力は年齢ではない、むしろ歳を重ねるごとに得られる魅力や個性や知性こそ本質的な美であり、いくつになっても恋愛はできる」という至極真っ当な意見にはもちろん賛同するが、今すぐ誰かに愛されたい今日を生きている俺にとって、その言葉はあまりにも弱々しい。
「青春は歌舞伎町のドブに捨てた」と自虐的に笑う、ホス狂いの女友達がいた。
しかし彼女は今、昼職の男と結婚して、田舎で子供を育てている。
結婚や出産がイコール幸せだとは思わないが、彼女にとっては歌舞伎町を卒業することが、ひとつのターニングポイントになったことは確かだろう。
等身大の自分自身や過去、必死にすがりついていたもの(ホストや整形やカネ)と対峙し、受け入れ、なんらかの形でケリをつけることで、その時少女は大人になるのではないか。
そんな少女たちの大人になっていく過程を描きながら、明日カノの物語はフィナーレへと向かっていく。
綺麗事は一切なしで、それぞれの少女が、それぞれの形で自分とケリをつけるのだ。
そして必ずしもそれは、いわゆるハッピーエンドではない。少なくとも読者にとっては。だがハッピーかどうか、それはそもそも他人が決めることじゃない。
俺はまだ、自分自身の年齢や若さというものに対して、ケリがついていない。
そういう意味では俺はまだ、少女のままだ。
性別や年齢やセクシャリティを問わず、そういう大人はきっと多いだろうし、これからもどんどん増える気がする。
そしてそんな「少女」の数だけ、答えがあるのだ。
諦めて受け入れることも、一生抗い続けることも、本人が決めたことならどちらも答えだ。
誰もがみんな明日『誰かのカノジョ』になるかもしれない
『明日、私は誰かのカノジョ』
これは誰もがどこかに抱いている己の中の「少女」と対峙する、厳しくも優しい物語だ。
人によっては容赦無く殴られるような部分もあるだろうし、救いのない(ように読者には見える)展開もある。
それでも同時に、作者の愛情深い眼差しと、少女たちの躍動する命の輝きが、俺のような人間の暗い道を照らしてくれる、本物の光になり得そうだ。
明日カノの物語は、いつだって誰かとの出会いで、人生が変わっていく少女たちの姿を描いている。
俺も、あなたも、誰もが突然明日「誰かのカノジョ」になるかもしれない。
時としてそういう出会いがあるのもまた人生だ。そしてその出会いが、自分自身を大きく変えるかもしれない。
だからその日まで、みっともなくても生きてみようと思える力が、この作品にはある。
人は時にこれを、希望と呼んだりもする。
人はまだ見ぬ「明日」のためになら、少なくとも今日を生きることはできるのだ。どれほど泥臭くても。