東京の夜空には本当に星がないんだ、ということを初めて知ったのは18で田舎から上京して来た、その夜のことだった。
星が見えない代わりに、ネオンや、宝石や、シャンパンの泡なんかが魔法のようにキラキラ輝いているのだ、ということを知ったのはもう少しあと…俺が夜の新宿2丁目で、ゲイバーのスタッフとして働き始めた頃だ。
だがそういうキラキラは、星空のキラキラと違って、冷たくて、寂しい感じがする。
俺たちはそんな寂しさから、身近な他人のあたたかさを求めてしまうことがある、ということもその頃知った。
俺だけではない。いけないとわかっていても、水商売人にとって一番身近な相手のひとつである客という存在に、シャンパンの泡のような淡い恋心を抱いたことがある人は少なくないのではないか。
それは果たして、許されることなのだろうか。
客と恋に落ちる瞬間
客との本気の恋愛というものが、今の時代のキャバクラやホストクラブにおいてどの程度NGなのか俺は知らないが、水商売をしていた当時付き合いのあったホストやキャバ嬢が客と失踪した、というような話は何度か耳にしたことがある。
俺も店のママ(男だが…)や先輩たちに隠れて、常連客の男性と付き合っていたことがある。
会計後の見送りに、2人で外に出るほんの数分間。
誰もいない路地裏で彼と俺は、タバコを吸いながら、ほんの少し世間話をしてから別れるのが、初めて会った時からの習慣だった。
初めてキスをした日もそうだった。どちらから唇を重ねたのかは憶えていないが、背の高い彼の向こうに、東京の星のない真っ黒な夜空が広がっていたことを憶えている。星の代わりに、雑居ビルのネオンが輝いていた。
2人の関係はその日から1年間続いたが、結果、お互いボロボロに疲れ果てて別れてしまった。最後は喧嘩ばかりだった。
水商売人と客の恋は心身を消耗して、俺が思う以上にハードだった。
魔法がとける時
俺の経験上、あなたたちの心と体を思うのであれば、客との恋はおすすめしない。
初めは楽しいだろう。
しかし、真夜中のキラキラの中で出会った2人の間には、綺麗な魔法がいくつもかけられていて、恋人という踏み込んだ関係になった瞬間から、その魔法はとけ始める。昼間の光の中で、少しずつ。
生活リズムの違い
相手が昼職なら生活リズムや休みが合わず、デートや旅行に行くのは難しい。
昼夜が完全に真逆というパターンも珍しくない。
そしてそういう関係で、譲歩するのはいつもどういうわけか我々夜の側の人間であることが多い。
たとえば朝まで働いてくたくたになった体で、出勤前の相手の家に行き、慌ただしく愛し合う。そして相手が会社に出るとベッドに横になり泥のように眠る。
あるいは相手が休みの週末。営業明けにそのままデートに行き、そのまま眠らずに出勤するというようなことも、何度もあった。
体力勝負でアルコールも飲まなければならない水商売人にとって「睡眠」は何にも代えられないものだが、それを昼の世界を生きる人々に理解してもらうことはなかなか難しい。
周囲の目
誰にも言えない秘密の恋、という背徳感が時に恋愛のスパイスになることはよくある。
しかし夜の世界は狭く、噂が広がるのも早い。
例え店に恋愛禁止令がなかったとしても、客と親密にしている姿をどこかで見られれば、枕営業を疑われたりと、夜の街での2人の評判に傷がつくかもしれない。他の客が離れる原因にもなるだろう。
誰にも言えない関係は、誰にも相談したり愚痴をこぼしたりできない関係でもあるので、そのストレスも大きいだろう。
これは不倫などにも言えることだが、周囲の目から逃げ続ける関係というのは、心に大きな負担をかけるものだ。
初めはロマンチックに思えたそんな背徳的な関係も、時間が経ち慣れてくると次第に疲れるものに変わってくる。
嫉妬
相手が店の常連ともなれば、出勤中に店に来ることもあるだろう。
そうなれば自分が他の客に媚を売ったり、セクハラまがいのことをされている姿も見せなければならない。それを見ていて、相手はやはりいい気持ちはしないだろう。
そして次第に相手はこちらの「水商売人感」のようなものを嫌うようになる。
例えば居酒屋で2人で飲んでいる時、彼がタバコをくわえた瞬間、つい癖で自分のライターで火をつけようとしてしまったことがあるが、驚くほど不機嫌になった。「俺は客か?」と。
初めは客だったのに、今度は客扱いされることを嫌う。しかし店には来るので、その時は客と従業員として接しなくてはいけない。店での顔と2人でいる時の顔を使い分けなくてはならない。
この根底には「嫉妬」の感情が流れているのだろう。「自分を特別扱いしろ」「他の客と同じように扱うな」というような。
もちろんそれはこちら側にも言えることで、相手が店の他の従業員や、他店で遊んでいる姿を見るのは複雑なものだ。
お互いを好きだからこそ、その嫉妬のすれ違いが、2人の間に少しずつ溝を作っていく。
正しい選択とは何か
こうしたすれ違いを重ね、俺の場合最後に残ったのは、飲み残しのシャンパンのような、恋の残骸だけだった。
もちろん仕事とプライベートは別、と割り切っている人も多いだろう。だから自分は客と恋に落ちることなどない、と。素晴らしいプロ意識だ。
しかし人は果たして、そんなに強い生き物だろうか?
恋に落ちる瞬間など、一体誰にわかるのだろうか?
今夜新規でやってきた客が、あなたの世界を一瞬で変えてしまう可能性がないと、本当に言えるのだろうか?
そしてもしそうなった時、あなたはどういう選択をするだろうか?
客との恋に、デメリットの方が圧倒的に多いのは明らかだ。店によっては厳しい罰則もあるだろう。大人なら感情を押し殺すこともできるだろう。
だから俺は「客と恋に落ちてもいいのか?」というこの記事のテーマに、記者として、また水商売の先輩として「NO」という答えを出さざるを得ない。
当然だ、と思うプロ意識の高い読者はここで記事を読み終えてもらって構わない。
そう、その選択はおそらく正しい。
それでも…というあなたへ
それでも。
今、客と本気の恋をしてしまい、それを捨てきれないという水商売人が、誰か1人でもこれを読んでいることを信じて、ここから先は記者ではなく、ひとりの男として少々無責任なことを書く。
あなたがもし、これらのデメリットやリスクを理解した上で、それでもその相手を本気で好きだと思うのなら、貫くべきだ。
それが、今のまま隠れて付き合うのか、あるいは仕事をやめるのか、それはわからないが、覚悟と愛さえあれば可能なはずだ。
俺にはできなかった。結局、どちらも足りなかったのだろう。
疑似恋愛を売り物にしている水商売人が愛を語るな、夢見るな、という人もいる。
ネオンや宝石やシャンパンのキラキラが夜の闇の中だけの魔法だということも俺たちは知っている。
でもそんな作り物の世界を生きるからこそ、自分の中に生まれた本物の、温度を持った恋心というものを見失わずに、大切にしてもらいたい。それは人生をかけて追いかける価値のあるものだ。
それは、もしかしたら本物のキラキラかもしれない。
暗い夜空の下で働いていると、いつの間にかみんなそういうものを見失ってしまう。
その恋を逃せば、同じキラキラは、もう見つからないかもしれないのだから。
客と恋に落ちてはいけないのか?
いいに決まっているじゃないか。