思い出が終わって無くなりゆく3月。
春は別れと出会いの季節であるという。
3月という季節に限らず、毎日のように出会いと別れを繰り返すこの街・歌舞伎町。
今回はそんな歌舞伎町にも一つの区切りをつけようと思う。
以下に2編を続ける私の短いエッセイが、4月に歌舞伎町に足を踏み入れる18歳たちの光になることを願って。
名刺
自分の名前が書かれた呪いの札、それが名刺である。
名刺を受け取るたびにその人が掛けられている呪いが自分にも取り込まれて、また新たな呪いが自分の中に積み重なっていく。
名前は一種の物語だ、と、担当の名刺を見ながら思った。
発注が遅れていると言って白地に明朝体の簡素な名前が書かれた名刺を貰った。メタリックさが演出されていたり金箔がかかっていたりと豪華な名刺をたくさん貰っても、私が担当にしたのは簡素な名刺しか渡してこない人だった。
きっとそれは、無駄な装飾が一切されていない、その人の名前を構成する文字が持つ魔力を一身に浴びてしまったからだと思う。
一緒に過ごすうちに名刺の余白の中に、この人との記憶が刻まれていくようだった。
名前は呪いだという言説はずっと昔からよく聞く。まさにその通りだと思う。夜の世界では特に本名とは違う源氏名で生きていくから、本当の自分が誰なのか分からなくなっていってしまいがちだ。
神隠しに遭って自分の名前を忘れないようにするもの。
そのための武器が名刺であると考えたら、偽りだらけのこの街も何だか愛せるような気がした。
香水
何度生まれ変わってもこの香りを忘れないだろう。
ホストを卒業した元担当から最初で最後に貰ったプレゼントは香水だった。
某ハイブランドの人気な香水で、おそらく多くの女の子が持っているものだけれど、私にとっては唯一無二の宝物だ。
人がいなくなったとき、最初に忘れるのは声だという。
聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順番で忘れていく、らしい。
よりにもよって彼は一番最後に忘れるものを置いてどこかへ行った。
喪失感も、その喪失感を埋めるものも、彼は同時にすべて置いて行ってしまったのだった。
彼がいま何をしているかは知らない。ラインもインスタのメッセージも既読がつかなくなってしまった。けれど最後に会って私が大号泣していたときに「死ぬわけじゃないんだから」と言ってくれたのをずっと覚えている。
それに加えて言われたのは「こんなに長く一緒に居てくれた子は人生で居なかったから、多分一生記憶に残ると思うよ」という言葉。
どこまでも呪いをかけていく男だ、この人は。
香水をつけて出かけるとき、プッシュする度に彼の声と匂いを思い出す。
呪いが解けるまであと何回の夜を過ごせばいいだろう。
溺死するような未来のなかで
この暗い世界のなかでどうやって生きていくのか。
──それが、歌舞伎町で生きている人間が心の深いところで持っているものだと思う。
世間的に悪いイメージしかない歌舞伎町だけれども、そこに救われたことがあって、かつ人生で初めての青春を過ごして笑えることができた人間は少なくない。
確かに良い思い出は少ないかもしれない。
けれどここで過ごしてきた、あるいは過ごしていく思い出がのちに光となることを、信じてやまないのだ。