その週末、ミユキは東京で暮らす母の元を訪ねていた。
ミユキは思春期の頃から京都暮らしだが、生まれたのは千葉県だった。両親も関東の人間なので、ミユキが関西弁でないのも、そのためだ。
小さい頃の千葉の思い出といえば、駅弁の『菜の花弁当』だ。
ミユキの両親は共働きだったので、母は菜の花弁当で夕飯を済ませようとすることが多かった。「今日も菜の花弁当でごめんね」と、母はいつも申し訳なさそうにしていたが、ミユキはそれが嬉しかった。
菜の花弁当は、ご飯の上に、鶏そぼろと炒りたまごが乗っており、煮たアサリの串や紅しょうが、お漬物が付いているだけのシンプルなものだったが、ミユキは素朴なその味がなんとも言えず好きだったのだ。
母の顔を見ると必ず、菜の花弁当が食べたくなるのだが、菜の花弁当は限られた駅でしか売られていないため、ミユキはもう長年、菜の花弁当を味わえていなかった。
そんな時、キャバクラの客である聡太からLINEで連絡が入ったものだから、ミユキはついつい、ワガママなオーダーをしてしまうのだった。
「ミユキちゃん、今東京に来てるんでしょ?」
「うん、そうだよ」
「俺、今出張から帰ってきて、成田空港に到着したとこなんだ」
「ウソ、じゃあ、会えちゃったりする?」
「会おうよ!なんかお土産買っていくけど、何がいい?」
「ホント!?じゃ、菜の花弁当がいい!」
「菜の花弁当…?よくわかんないけど、駅とかで売ってるの?」
「うん!私の思い出の味なんだ〜」
「そっか。じゃあ、探して買っていくよ」
しばらく経ってから、ミユキは菜の花弁当が、千葉駅の構内でしか買えないことをボンヤリ思い出していた。
千葉方面から帰ってくると聞いてつい、勢いでオーダーしてしまったのだが、聡太は成田空港から帰ってくると言っていた。
空港から東京へ帰って来る人は、大抵『成田エクスプレス』に乗るものだ。つまり、東京まで乗換なしで一直線に帰って来るわけで…。
ミユキは「お土産、別になくても大丈夫だよ〜」と、文章を打ちかけたのだが、キッチンにいる母親に呼ばれたことがキッカケで、そのメッセージは送らないまま保留となってしまった。
数時間後…
東京駅で聡太を出迎えたミユキは、手渡されたビニール袋の中身を見て驚愕するのだった。
「えっ…!?菜の花弁当、どうして!?」
「どうしてって、食べたいって言ってたじゃん」
「だって成田から直通で東京まで来たんじゃないの?」
「いや、千葉駅で1回降りたよ。調べたら千葉駅でしか売ってなかったからさ」
ミユキは、袋の中にある赤地に黄色の可愛らしいパッケージが、視界の中でうるうるとボヤけていくのを感じながら、震えそうな唇を噛み締めていた。
「うっ…、ありがと…」
「ハハッ!めっちゃ感激してくれてるじゃん」
「だって…、わざわざ降りてくれるなんてさ」
聡太は、当然のように千葉駅で降りたと言っていたが、ミユキにとっては、そうまでして菜の花弁当を買って来てくれた聡太の気持ちが、信じられないほど嬉しかった。
「せっかくだし、一緒に食べようよ。この辺、どっか景色のいいとこあるかな」
空は、薄いピンク色に染まり始めたところだった。
ミユキと聡太は、並んで菜の花弁当の蓋を開ける。
「へー、菜の花弁当って意外にシンプルなんだね」
「そうなんだけど、マネして作っても、絶対この味にはならないんだよ」
「え、マネして作ったことあるの?」
「そぼろに卵だから簡単そうだけど、こんな優しい味にはならなくて…」
「確かに優しい味だね」
「うん、聡太みたいに優しい味」
「あはは、また、そういうこと言って…」
「だってホントだもん。ホントに嬉しかったんだもん」
アサリの串を咥えながら、ミユキは聡太の肩にもたれかかり、紅しょうが色の光の中でそっと目を閉じた。