「ひゃあ、近くで見ると本当にでっかいなあ」
夕陽を反射している巨大建造物を見上げて、俺はそう独りごつ。ここは水商売のメッカとしてお馴染み、新宿歌舞伎町である。
新宿にはしょっちゅう入り浸っているものの、2丁目やゴールデン街ばかりで歌舞伎町にやってきたのはずいぶん久しぶりだ。
水商売(ゲイバー)時代の行きつけのサウナや、馴染みの店員がいる居酒屋はなくなり、その代わりに馬鹿でかい「歌舞伎町タワー」が出来上がっていた。
そしてそのお膝元、シネシティ広場。ネットやテレビで観ない日はなかったが、本当にこれほどいるとは…。
そう、最近何かと話題の「トー横キッズ」である。
今回は最近の歌舞伎町事情を、数日通った俺目線でレポしてみようと思う。
これから歌舞伎町で働こうと考えている男女はぜひ参考にしてほしい…というのは建前。
部屋にこもってネット調べのこたつ記事ばかり書いてるのに飽きたので、たまには自分の足で取材に出たかっただけである。秋の陽気も気持ちがいいし。
だからどれほど有益なことが書かれているかとか、そういうことはあまり期待しないで、気軽な読み物として読んでほしい。
トー横キッズと立ちんぼ女性
トー横というと東横インや東横線を連想する人も多いのだが、それは間違いで「新宿東宝ビルの横」という意味である。最近では主にシネシティ広場を指す。
その周辺をたむろしている若い男女が「トー横キッズ(トー横界隈とも言う)」だ。
よく見るともうキッズという年齢ではなさそうな者も多いが、「トー横キッズ」は概念なので、彼らもやはりキッズと呼んで差し支えないのだろう。
大音量で踊る者、何かをライターで燃やしている者、取っ組み合いの喧嘩をしている者、それを見て爆笑している者、得体の知れない透明な液体を飲んでいる者…まさに世紀末。
まるで自分が『北斗の拳』か『マッドマックス』の世界に迷い込んだような気分だ。さながら靖国通りは怒りのデスロードか。
数人で輪になって儀式めいたダンスを踊っている集団からは『ミッドサマー』感も漂う。なんだこれは、超怖ぇ。
歌舞伎町なんて街はもともと治安のいい街ではないが、それにしてもこの乱痴気騒ぎは一体どうしたものか。
少し大久保方面へと足を伸ばせばトー横の喧騒は薄れるものの、そこには立ちんぼと呼ばれる路上売春を行う女性や、それを値踏みする男性、道端で眠る若い女性もいる。煌びやかなホストたちの看板の下で。
立ちんぼの多くはホストに貢いでいる女性で、トー横キッズの多くは家出中の若者たちだという。
街全体に漂う下水と、香水と、ニコチンと、何かを甘辛く煮込んだような食い物の匂いが入り混じった空気だけは、俺が18で初めてこの街に来た時から変わらないが、なんだかそれ以外はずいぶん変わったような気がする。
俺の知る歌舞伎町には、もっとひりついた雰囲気があったように思う。
どこでも怖い人が睨みを効かせている感じがして、しかしそれゆえにある種の統率感や規律のようなものを感じる街だった。
石原慎太郎の浄化作戦以降の世代なので、本当に怖かった時代の歌舞伎町を俺は見ていないが、それでも新宿の中で歌舞伎町はやはり特別な緊張感を持つ場所だった。
今の歌舞伎町は、まるでひっくり返されたおもちゃ箱だ。
高熱にうなされている時に見る夢のようなカオスが、街全体に垂れ流しになっている感じ。
かつてのひりついていた歌舞伎町が究極のリアリティを持って鎮座していたのと対極に、今の歌舞伎町は秩序がなく、まるで蜃気楼のようなリアリティのなさや儚さを放っている。これはこれで嫌いではないが。
そんな文学的なことを考えながら歩いていたら思いっきりガムを踏んで、これはいかにも歌舞伎町という感じだ。おニューのスニーカーが…とほほ。
ストロングゼロは何色の夢を見せるのか?
それにしても最近は日が暮れるのがずいぶん早くなった。
眠らない街・歌舞伎町にも夜は等しくやってくる。吸い込まれそうな夜空には星の代わりに毒々しいネオンがまたたく。
再び戻ったトー横で、俺は酒を飲むことにした。シラフでこの熱狂的な空間にいては、正気を保てる気がしない。
トー横キッズたちはよくストロング系缶酎ハイを飲んでいる。安く、早く酔えて、飲みやすい。
郷に入れば郷に従え、ということで。俺もストロングゼロのレモン味を飲むことにした。
おそらく10年以上ぶりに飲んだストゼロはひと口目からガツンと脳幹を殴りつけ、瞬時にアルコールが血流に乗って全身を巡り、立ったまま俺はふわふわとした気分になった。
なんだか、いい意味で、何もかもがどうでもいい。少しずつ体が溶けて、歌舞伎町という街と自分が一体化していくような感じがする。極彩色の夢を見ているみたいだ。
広場に足を踏み入れてみる。
すると通りかかった地雷系ファッションに身を包んだ若い女性が、やはりストゼロを(ストローで)飲みながら歩いていて、「乾杯〜」と俺のストゼロと缶をぶつけて、そのまま去っていった。
観光客や外国人が、そんな様子にスマホのカメラを向けている。一眼レフを構えている者までいる。もしかしたら、ストゼロを持った俺はトー横キッズに見えるのかもしれない。
キッズ達や俺はまるで動物園の動物で、勝手に写真を撮るなと言う権利すらないらしい。でもそれを気にしている様子のキッズは、1人もいないようだった。
皮肉なことに、アーチ型の車止めや高いビルに囲まれたシネシティ広場は、どこか動物園の冷たい檻を連想させる。
どこからともなく、耳をつんざくような女性の甲高い笑い声が聞こえてくる。いくらストゼロでも、あそこまでハイになれるものだろうか?
そういえば最近はトー横で、市販薬のOD(過剰摂取)が流行っているとも聞く。痛ましい話だ。
それでも、彼らは笑っていた。
おそらく神も仏も人間も信じていないであろう彼らにとって、ストゼロや市販薬こそが、信じるべき何かなのかも知れない。宗教とは、夢を見ることに似ているから。
誰の心の中にもトー横キッズや立ちんぼ女性はいる
3本目のストゼロを開けて飲み始めたあたりで、足元がだいぶ怪しくなってきたので、少しトー横を離脱することに。
できるだけ人の少ない場所を…と路地を歩いているといつの間にかラブホ街に迷い込んでいた。
あそこも、ここも、あっちのホテルも、かつてお世話になった。相手はみんな一度きり、ゆきずりの男だったが。
ホストに貢ぐ金を稼ぐために男と寝る立ちんぼの女性たち。
たった一晩、嘘でもいいから愛を囁いて欲しくて男に身体を開き続けたかつての俺。
一体何が違うのだろう。
立ちんぼだけではない。トー横キッズだってそうだ。
ゲイであることを隠しながら生きていた俺が、新宿2丁目という居場所を見つけた時と、何が違うのか。
同じ境遇の人間にしか絶対に理解できず、群れの中でしか癒せない傷というのはある。同じ夢を見られるのは、同じ痛みや同じ敵を抱える者同士だけだ。
誰の心にもトー横キッズや立ちんぼがいる。
自分ではどうしようもできないちょっとしたタイミングや境遇や運の違いで、シネシティ広場や大久保公園の、こちら側とあちら側に別れているに過ぎない。
もちろん事件や犯罪の温床になっている側面もある以上、トー横も立ちんぼも遠くない未来に歌舞伎町からは消されてしまうだろう。
歌舞伎町のホテルからトー横キッズが飛び降りて亡くなるという、あまりにも悲しい事件も起きたが、そんなことも含めて、初めから無かったかのように扱われるだろう。それぐらい彼らの存在はもろく、儚い。
だが彼らが歌舞伎町から消えたところで、彼らの存在や、彼らの抱える哀しみが消えるわけではない。そんな彼らに、俺たち大人は何ができるのだろうか?
ケチな一介のライターである俺個人にできることなど、檻のようなトー横の真ん中で、彼らの真似をして、ストゼロで夢を見てみることぐらいである。
けれどこうしてトー横の内側で、外側からニヤニヤとカメラを向けてくる群衆を見ていると、本当に檻に入っているのは一体どちらなのかわからなくなる。
キッズたちはこんな風に世間、すなわち俺たちを見ているのかも知れない。
いつの間にか戻って来ていたシネシティ広場。
新宿東宝ビルに描かれた巨大なゴジラが、そんな群衆や世間から、トー横キッズたちを守っているように見えた。
さすがに飲み過ぎだろうか?
ストゼロが見せてくれるのは、うたかたの夢。それでも…
そう、さすがに飲み過ぎだった。
やはりいい年をして、ストゼロをジャブジャブ飲むのは危険だ。
死ぬほどの二日酔いで、しかしこの原稿の締め切りは迫っており、青白い顔でパソコンに向かっている。
ストゼロやODやホストに貢ぐことで夢を見ることができてもそれは一過性のものだ。
飲み過ぎた翌朝の二日酔いと同じく、夢は見過ぎれば見過ぎるほど、醒めた時に現実の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる、という重篤な副作用がある。
それに耐えられなくて、壊れてしまう人も多い。
だが同時に、それでも夢を見なければ越えられない夜があることも、俺は知っている。
だからこそ酒も夢も残らない程度で楽しむしかない、というぬるい結論にいつだって行き着いてしまうのは、大人のずるさだろうか?(ODはまじでやめたほうがいいが)
そんなジレンマを抱えながら、少しでも彼らに対し恥ずかしくない大人でありたいと願うばかりだ。
ウプッ…ところで編集部のみなさんすいません、締め切り、やっぱりあと3日伸ばしてもらえませんか…?(恥ずかしい大人)