私にとって初めてのキスはホストだったし、最後のキスは知らないおじさんだった。
好きな人となんかキスもセックスもしたことがなかった。それどころか好きな人なんてできたこともなかった。「どんな人でも受け入れてくれる」──そう聞いて歌舞伎町にやって来たけれど、どうやら違ったようだ。
私の「歪んだ」セクシャリティを認めてくれるのが歌舞伎町だと思っていた。立ちんぼ、トー横キッズ、ホス狂、何を売っているか分からない外国人、スカウト。この街は多様性の坩堝だ。
でも、どうやら恋愛欲を商売にする町には、全ての人を受け入れてくれるはずであっても、私の居場所はなかった。
アロマンティックの生きづらさ
私はアロマンティックでアセクシャルだ。
つまり「恋愛感情がなく性的感情がない」という人間である。だからこれまで恋愛というものを経験したことがなかった。恋愛に対して嫌悪感すら抱いていたし、同時に恋愛ができる人たちに対して羨望も抱いていた。
人から好意を向けられて、何となくで付き合ってみたことはある。でも、その人たちに対して恋に落ちることはなかった。付き合っているとどうしてもだんだんと恋愛的な好意や性的欲求が増えていく。それに耐えかねて、自分から全力疾走で離れてしまったほどだった。
男女という関係において(もちろん同性同士でも)、どうしてただ「人間として好き」という状態ではいられないのだろう。それではいけないのだろうか。どうしてそこに性愛が絡んでしまうのだろうか。
ずっと分からなかったし気持ち悪かった。
性愛が絡んだらその相手の「人」が破壊されてしまうのに。
性愛が絡んだら、二人の間にある何かが、死んでしまうのに。
普通の人はそうは思わないらしい。
性愛が絡むからこそ美しい。
性愛が絡むからこそより深い関係になれる──そう聞いた。
どんなに深い関係であっても、恋愛や性愛の価値観が絡むと、途端に私とその人の世界は隔絶されて私はぽつんと取り残される。なおかつ恋愛や性愛は、今まで出会ってきた人たちによれば「できて当たり前のこと」。
だから私は、今まで実の親にすらセクシャリティを否定され続けていた。
この記事を読んでいる読者さんにはそういう経験はあるだろうか。
セブンスターと深夜3時の漫喫
20歳のとき、友達に連れられてホストの初回に来たのが歌舞伎町ログインのきっかけだ。
金銭を払えば人間関係を得られることになぜか面白さを見出して、私はいつの間にかホス狂いというものに進化していた。
初めてできた担当の話をしよう。
彼はいわゆる「モブホス」である。たった5万(されど5万)を使った初指名の日はたいへんに喜ばれた。当然のようにアフターでシーシャに行って、そのあと彼は歩き煙草を客の金のように踏み潰しながら安い漫喫に私を連れ込んだ。正直ここで逃げようと思えば逃げられた。
でも「これを乗り越えたら私も人間になれるんじゃないか」。
──そのとき、こんなことを思いながら、つないだ手の温度のなさを感じていたのを覚えている。
シーシャのお金も漫喫のお金も私が出した。漫喫は深夜でも目に悪いほど看板がぎらぎらと輝く、いかにも安っぽくて狭い所で、トイレの放尿音が聞こえるくらいの汚い場所だった。
枕営業はいらないと強く言っていたから全力で拒んだが、担当は私に無理やりキスをする。脳裏に嫌悪がよぎった。ああ、気持ち悪い、やってしまった、やられてしまった。硬いものが下半身にあたって痛かった。痛い。痛い。気持ち悪い。
そのとき思わず泣いてしまった私に対して、担当は「なんで?」と言いながら虚ろな目をしていたのを覚えている。
心を売られても私は買うことができなかった。お金はこっちが出しているのに幸せも買えなかった。残ったのは空虚感。なくなったファーストキス。初めてのキスはセブンスターの味がした。
煙草と偽物の愛のにおいが口の中を支配して切なくなって、「またね」と言ったきり私は黙って彼のラインをブロックした。
地雷女子は男に依存するというステレオタイプ
「”ぴえん系”なのに恋愛できないとか嘘でしょ、そういう人に出会ったことないだけだよ」
歌舞伎町という多様性に満ち過ぎた閉塞な街でも私は「外の世界」と同じようなことを言われた。この街の人たちは確かにいつも恋愛をしている。恋愛という病に苦しみ、恋愛という迷宮の中でずっとさまよって、時には自ら命を絶とうとする。
私はその当時いわゆる「ぴえん系」「地雷系」と呼ばれる部類の見た目だった。居場所を求めて歌舞伎町をさまようのは他の地雷系女子と同じだったが、アロマンティックかつアセクシャルであるということだけが違っていた。
そしてそれが歌舞伎町では致命的すぎる欠点だということも、そのときは気付いていなかった。
今までに傷つけた手首の線が、結ばれる先を求めて私のことを呼んでやまない。私は自分の傷跡に「大丈夫だよ」と言うことで必死だった。
恋愛できないと生きててはいけない
前章で語ったのは歌舞伎町でできた友達の話だ。恋したことないだけでしょ、とスクリュードライバーを飲みながら軽く吐き捨てられたのがかなりショックな経験として心に残っている。そしてそれは次の担当ホスト(今も続いている)にも「ありえなくない?」と言われた。
確かにそうかもしれない。
ホストクラブや歌舞伎町は、寂しい人たちが身を寄せ合って自分を認めてもらうために、疑似恋愛をする所だ。
色恋営業・枕営業が当然の世界では、アロマンティックやアセクシャルというもの自体が受け入れがたいのかもしれない。
結局その担当ホストは私のマイノリティなところを認めてはいないようだったが、私は彼のとある部分を気に入ってホス狂いへの道を歩み始めた。
貢ぐためにセクキャバで働いてみたが全然ダメだった。「もしかしたら無恋愛だし無性愛だから、何の感情もなく夜職できるかも…」と考えた私は甘い。お互いの顔が見えないほど薄暗いフロアの中で、おじさんの膝の上に乗りながら、どうしてこんな性欲を持って生きられるのかが気になって相手が火星人に見えて仕方なかった。ただただ、ただただ男が気持ち悪かった。
結果的に恋愛というものも、性行為というものも余計に理解できなくなってしまった。
最後のキスは、私は今のところ担当でも好きな男でもなんでもなく知らないおじさん相手だ。
嘘の仮面をかぶって生きる
この一件があって以来、私は自分のセクシャリティを隠すようになった。
けれど嘘の仮面をかぶって生きる。
そういうことに対しては、昼の世界と夜の世界とどちらもどう違うんだろう。
私はいま昼職をしている。昼職・夜職という一見隔絶された世界でも、恋愛できない人間が受け入れられないというのは存在していて、私はどこに行っても宇宙人扱いだ。けれども今は諦めというか、もう「私は人間です」という嘘の仮面を被るしかないと思っている。いつか受け入れてくれる場所があると信じて。
いや、私のような人間は生きやすい世界を自分で作らなければならない。
これからも言葉と夜の海を泳いでいく。
この記事を読んでいるあなたがもし生きづらさに同じように悩んでいるのなら、こういう人間も居るのだということを知っておいてくれたら嬉しい。